1979年 昭和54年
- 1979_S54
- 1979_S54_TPC卒業アルバム
- 1979_S54_TPC卒業アルバム
- 1979_S54_夏期学外写真展
- 1979_S54_夏期学外写真展案内状
- 1979_S54_卒業アルバム委員会
1980年 昭和55年
- 1980_S55
- 1980_S55_TPC卒業アルバム
- 1980_S55_TPC卒業アルバム
- 1980_S55_モデル撮影会
- 1980_S55_葵祭学内展
- 1980_S55_国分寺界隈図
- 1980_S55_国分寺周辺
- 1980_S55_国分寺周辺
- 1980_S55_祭学内展
- TPC_12_1980_写真展案内
- TPC_12_1980_写真展案内
- TPC_12_1980_写真展案内
1981年 昭和56年
- 1981_S56_TPC卒業アルバム
- 1981_S56_TPC卒業アルバム
- 1981_S56_TPC卒業アルバム
- 1981_S56_新勧ハイキング
私とキャラバン隊
昭和58年卒
嶋田 裕文
まだ、私は学生気分もぬけきれず、社会人一年生として何にもわからずに、毎日がむしゃらに働いています。
私の思い出といえば、サークルのことばかり。一般大衆が想像する「学生時代」とはかなりかけ離れておりました。夏合宿、春合宿。例会、学外展、モデル撮影会。キャラバン隊などなど数えきれません。そうした思い出の中で、昭和57年におこなわれた名古屋キャラバン隊は、私が直接先頭に立っておこなわれた行事の1つなので、特に印象深く心に残っています。
キャラバン隊とは、昭和48年北晦道で開催されたのが初めで、それ以降、仙台、名古屋、静岡、京都と遠征し、昭和57年にもう1度名古屋で開催されることになりました。(キャラバン隊とは。文化会の行事の1つで、各地に遠征しその地域の大学生と交友を持ち、自分たちのサークル活動をその地域の人々に知ってもらうという主旨で始まったものです。この名古屋キャラバン隊は、第6回目ということで、遠征人数、交流大学等、規模も前の5回の開催よりは数段大きくなりました。
我々写真研究会も、写真展をメインに中京大学写真部との合同批評会をおこないました。キャラバン隊は1年前から準備か始められました。最初、候補地選定、そして下見調査をしてから遠征地を決定しました。そこで、名古屋の他に大阪と仙台が候補にあがりました。
昭和56年の夏休み、私は大場君(当時、写研幹事)と2人で仙台へ行きました。まずは仙台市役所、県庁とまわり、公共施設(ホール、会場、展示場)の資料を集め、実際にその場所に行き、立地条件や設備などについて詳しく調査しました。また、我々は東北大学、東北学院大学などをまわり我々と同じような活動をしている文化団体、サークル等も調べました。やはり、初めての土地でしたので我々は非常に苦労しました。2人で足に豆を作って、ひきずりながら歩きました。しかし、捨てる神あれば、拾う神もあります。その夜、感動的にも、仙台在住の昭和47年卒の飯野先輩にお会いすることができたからです。当然飯野先輩とは初対面、しかしそこは先輩と後輩、すぐ夜の町へと繰り出しました。この後は皆様の御想像どおり、先輩の行きつけのスナックで飲んで歌って、親睦を深めたのです。飯野先輩と大場君の歌は絶品、その辺の歌手よりはずっとうまいのです。次の日も大学まわりをして、東京に戻ってきたのが夜の10時頃でした。同じ頃、文化会委員長の増田君や、実行委員長の藤森君らは、大阪、名古屋へ行って我々と同じような調査をしたのです。そして夏休み後、下調べの結果を検討して、名古屋に決定したのです。それからは名古屋に下見隊が10数回行き、施設や交流大学との交渉にあたりました。また、OBへのアプローチも非常に大切な仕事でした。幸いに石原葵友会名古屋支部長を中心に、名古屋支部のOB諸氏には多大な御協力を賜りました。その年の月末には、企画、交流校の選定等はほぼ決まり、最後の打ち合わせの段階を迎えました。そして、九月の本番を迎えたわけですが、このキャラバン期間中か私の大学生活中最も緊張した期間でありました。スケジュール通りに運行しているか、事故を起こさないか、やすまる時間がありませんでした。それだけに終わった時の喜びはひとしおでした。思わず青春ドラマを見るような熱いものが込みあげてきたのでした。その瞬間で僕の青春は終わったのです。とまでは言いませんが、学生生活は1区切り終わったような気がしました。それだけに、打ち上げコンパは狂乱乱舞、後は御想像におまかせします。
こうして名古屋キャラバン隊は、とにもかくにも無事終了しました。このキャラバンの成果については、賛否両論がありますが、1000名という同じ学校の学生が1つのものに向かって行動したということは事実であり、現代の学生自治意識の低下を考えるならば、評価に値すると考えます。
こうしてキャラバンと私のかかわりみたいなことを書いてみましたが、まだまだ書きたいことはたくさんあります。教訓めいたことを1つ言わせていただきますと、苦労すれば必ずそれは結果としてでてくると思います。これが、キャラバン隊を指揮して痛感したことです。
1982年 昭和57年
サークル活動の思い出
昭和58年卒
鈴 木 一 博
この原稿の依頼を受けてから、私はわずかな自由時間の中でいかにして書こうか、考えてしまいました。おそらく他のOBの方々もそうであるに違いありません。学生時代の一日二十四時間のせめて一割でももらうことができたなら、とつくづく感じます。
サークルの思い出は、私のようなOB一年生でも日に日に色あせてゆきます。あの時代の先輩の言葉、奴の表情、みんな霧の彼方へと遠ざかってゆきます。でも夜遅く帰宅して部屋でぐったりとしている時、突然のように学生時代のいくつかのシーンか浮かび上がってきます。
一年生の新歓コンパの翌朝、意識をとり戻して真っ先に目に入った先輩の下宿の天井。あの時は気持ちよくつぶれている私を先輩方が苦労して運んでくれました。タクシーに止まってもらえず、通りがかりのパトカーに乗せてもらいました。小雨降る路上に人の字になって寝ていました。でも、これらはすべて、翌朝、笑いながら話してくれた先輩方に聞いて初めて知ったことなのです。十八歳にして酒の恐ろしさを悟りました。
二年生の夏。夕方、部室のドアを流行のニューミュージックが流れていて、私はネガと印画紙とキャビネ版の作品を持って暗室に入ります。現像液と定着液がセーフティランプの熱であたためられ、私の鼻を刺激します。トリミングを決め、ピントを確かめ、数回の試し焼きを繰り返し、全紙の印画紙をベニヤ板のイーゼルに置き、そして四隅を十円玉で止めます。一分四十秒の露光の間、数分後に印画紙の上に現れる像のイメージが頭に浮かんできます。こんな事を繰り返して、暗室を出ると、もう十時。まだ気に入った作品ができず、べ夕焼きの見直しを始めたりします。マンガなど読みながらカップラーメンをすすっていると、三年生が部室に入ってきました。こうして、部室は夜半過ぎになるというのに昼間のようなにぎやかさとなるのです。朝五時半、紙コップに入った六十円のコーヒーを買いに出ると、もう夏の日差しが家々の間から照り付けていました。
合宿にはあまり良い想い出はありません。恐らく四回の夏合宿で好天にめぐまれたことなど一度もなかったに違いありません。特に二年生の時の琵琶湖での合宿は台風の直撃をくらい、宿から一度も出られないような日もありました。そのうさ晴らしのためか、コンパは大騒ぎとなり、ある人は眼鏡を琵琶湖の底に沈めてしまうし、またあるひとは行方不明になるといった具合で、合宿委員の私は、真っ青になった覚えがあります。
四年生になると、サークル活動からは一応遠ざかってゆきます。特に行事などでなくていいことになります。でも、おもしろいもので、そうなると、何も用がないのに部室に顔を出してみたりするのです。実際、私も十月1日の会社訪問が午前中で終わると、用もなく部室に行きホッとした記憶があります。サークルに対する愛着なのかそれとも自由の身となった四年生の身勝手なのか、ともかく秋から冬にかけて、そんな日々を送りました。
まあ、他にもいろいろな想い出がありますが原稿用紙ももったいないのでこの辺で止めておきます。
最後に後輩に贈る言葉を書くようにということですが、私もまだ半分現役みたいなものですし、四年間過ごしてきた感想も含めて少しだけ書いておきます。どんな組織でも長い間経過するといろいろな面で硬直化します。今年は新しくもう一度「写真研究会」というものについて一から考えてみてください。そうすればもっと良いサークルに発展できるかもしれません。少し生意気なことを言ってしまいましたが、写研はまぎれもなく現役の皆さんのものなのですから、みんなで考え苦しんでより良いものを作り出してください。あと、もう一つだけ。現在の写研の雰囲気は良いと思いますので、これからも仲間を大切にしていってほしいと思います。また、そのうち遊びに行きます「もん吉」にでも行って飲みましょう。
1983年 昭和58年
写真と私
昭和58年卒
鶴 巻 達 弥浪人した夏、東京のマンモス予哺校にかよっていた時、叔父から一枚の写真展の無料券をもらって見たアベドンの「The Fashion」、これが俺が初めて「写真というのは、すごいものだ。」と感じた写真と庵の出会いだったと思います。
大学に入り、写真部に入り、自分で現像し、紙焼きを始め、自分で1つの作品を作り始めて、それまで自分の表現方法(音楽する・文章を書く)を待っていなかった庵にとっては、自分が写真という表現方法をもつことができたということは大きな喜びでした。それとともに、写真を通じてクラブの友人・先輩・後輩・写真関係の人だちと出会うことができました。これは大学四年間の最高の財産だと今も思っています。そんな四年間をすごし、社会へ出る時になって、当然のように写真の道を選び、在学中からお世話になっていた卒業アルバムを制作している会社に写真をとらせてくれるというので就職を求め、今、一人神戸で毎日カメラを肩に頑張っています。
仕事で多い日には、フィルム10本以上撮ることもありますが、そんななかで「俺は写真を撮っている」とはいえないなと漠然と考えることがあります。それは、俺にとって写真とは自分の表現手段でありたいと思っているからだと思います。つまり、今の庵の仕事は゛写真を撮る”のではなく、単にフィルムの上に映像・対像を残しているという作業・処理をしているにすぎないような気がしてならないのです。だから、学生時代自分のフィルムを他人に現像してもらうのが大嫌いだった俺ですが、今は何のためらいもなくラボに出して上りを確認しています。つまり、毎日カメラのファインダーをのぞいて学生時代以上にシャッターを切っているのだけれど、写真はとっていないのです。学生時代撮っていた写真と、今仕事で撮っている写真との根本的・精神的な違いがそこにあるような気がします。自分で何らアイデンティを侍たずに、要求どうりまたそれに近いものを撮るということも、今何も力をもたない俺にとって
は、社会では至極当然なことかもしれません。当分は、自分で自分をカメラマンとは呼べないなと考えています。
近頃、このことを深く反省しており、仕事がはねた後プライベートに神戸に住む外国人たちのポートレイトを撮ろうと、目下週に一回くらい外人バーに足を運んでおります。そこでは本当の自分の写真に取り組みたいものだと思っております。当分は「たかが写真・されど写真」の今の生活の中で、自分の写真をとるべく頑張りたいと思っています。
以上が、近頃写真について考えていることです。こんなことを悩むことができるのも、まだ若い証拠かもしれませんが………。思いつくまま書いてみました。 (昭和58年6月26日)
1984年 昭和59年
- 1984_S59_ 通学路
- 1984_S59_国分寺周辺
- 1984_S59_TPC卒業アルバム
- 1984_S59_TPC卒業アルバム
- 1984_S59_TPC卒業アルバム
1985年 昭和60年

TPC_17_1985_055
1986年 昭和61年
1987年 昭和62年
1989年 平成1年
1990年 平成2年
1992年 平成4年
1993年 平成5年

1993_H05_TPC卒業アルバム
1994年 平成6年
- 1994_H06_TPC卒業アルバム
- 1994_H06_TPC卒業アルバム
- 1994_H06_TPC卒業アルバム
- 1994_H06_TPC卒業アルバム
1995年 平成7年

1995_H07_TPC卒業アルバム
1997年 平成9年
1998年 平成10年
- 1998_H10_TPC卒業アルバム
- 1998_H10_TPC卒業アルバム
- 1998_H10_TPC卒業アルバム
- 1998_H10_TPC卒業アルバム
2001年 平成13年
2002年 平成14年
2003年 平成15年

2003_H15_TPC卒業アルバム
2005年 平成17年

2005_H17_TPC卒業アルバム