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TPC_足跡_戦後編 1949年~1978年

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1949年 昭和24年  大学へ昇格 東京経済大学スタート。国分寺に校舎移転

1951年 昭和26年

1952_S27_写真同好会再建メンバー

復活のころ
東京経済大学
写真部創設者 片 山 吉 弘

今年は、東経大写真研究会が発足してから「50周年」を迎えたという。まことをもって、おめでたい限りである。
昭和26年だったか、1年後輩の岩田靖君と2人で雑談をしていた折、2人とも小学生の頃から現像・引伸ばしを自分らでやっていたので意気投合し、「では写真部でも作ろうか」ということになった。それにしてもたった2人での部の創設はちょっと気恥しかったか「えいやっ」ということで立ち上った。
ところが部屋は無いやら部費はさらさら。
そこで当時の関学長(故人)に掛け合いに行き、部室だけは何とか確保して下さったが、部費がない。
当時小生は自治会の議長をしていたので(スト決行で1ヶ月の停学を喰ったこともあるが)顔は広かった。部費割り当ての会議の停止を大いにブチ上げたものである。
そうしたら驚くなかれ、文芸系統としては二番目の予算を獲得できたのである。
こうなればしめたもの。当時さくらフィルムにおられた滑正行先輩をはじめ、先輩と名の付く方々を片っ端から訪問、寄附を仰いで回ったところ、集まるは集まるは………。
かくしてスタート。卒業の頃には会員も20数名と膨らんだ。といっても、写真の話など殆んど出なくて、将棋にこっていたり、碁石を並べたりの、ていらくだ。
これではいかんと刺激を与えるため、農工大をはじめ他大学に働きかけ「三多摩学生写真連盟」を結成、直ぐに「全日本学生連盟」を作った。
そうして、三多摩は新宿の旧二幸(現在のアルタ)で、全日本は上野・松阪屋でそれぞれ展覧会を開いた。というより拝み倒して開かせていただいたという方が確かだろう。
その折、誠に残念だったのは、女子大が1校も加わらなかったこと。それどころか物資か極度に不足していたので、女子大生では、とても印画紙はおろか、フィルムさえ買えない状態だったので無理もない。
かくいう小生も、自分のカメラは1台も持っておらず、他人様からの借り物で撮っていたのだから。50周年を迎え、物資も豊富になっている現在、どんどん良い作品を世に出して欲しいと思う。その思いたるや切なるものかある。
写真同好会再建メンバー写真 前列中央 片 山 吉 弘

1952年 昭和27年

1952_S27_TPC卒業アルバム

1953年 昭和28年

1) 写真部に昇格 部員数20名

2)三多摩地区大学写真同盟写真展・新宿二幸(現在のアルタ)

1955年 昭和30年

部室と暗室を確保 部員30名 再建後の第一期黄金期を迎える

銀座小西六ギャラリー単独学外展

1956年 昭和31年

1956_S31_TPC卒業アルバム

1957年 昭和32年

NIKON F MAMIYA 6 発売され35mmカメラへの移行期

1958年 昭和33年

1) 葵祭学内展

1959年 昭和34年

1) モデル撮影会 新宿御苑
2) 3) 4) 本館竣工

1960年 昭和35年

1)葵祭にてモデル撮影会

1960_S35_葵祭モデル撮影会

1961年 昭和36年

1962年 昭和37年

1)大磯海岸モデル撮影会。部室移転

1963年 昭和38年

私の写真とサークル活動
昭和40年卒
黒 沢 健 一
急に学生時代のサークル活動の思い出をといわれても、もう十八年の歳月が流れ、十年一昔という諺がある様にもう二昔前の事となるとなかなか想い出せず何から書き始めて良いものか思案します。
私が写真に趣味を覚えたのは確か小学校六年の春の遠足の時だと思います。日光に行って華厳の滝をバックに友達を撮影したのですが滝の上部は切れるし、友達の顔は下半分が切れるという大変面白い写真が出来ました。自分は滝の全影と人物の上半身を写真にするつもりだったのです。そんな事から何とかうまく撮れるようにと写真を始めました。中学、高校と一応写真部に席をおき、撮影のしかた、現像、焼付、引伸し技術を身につけたのです。大学に入ってから、写真部のある事は知っておりましたが、すぐに入部する事がなかったのです。なぜなら大学に入ったら何か違うものがあるのではないか、又自由に旅行もしたかったのです。
同じクラスに写真の好きな友達が何人かいて話し合っているうちに、写真部に入ってみないかという事になって入部した次第です。その当時の一年生部員はほとんど同じクラスの人達で占めておりました。
初めて入った写真部の部室は、学校の西側駅よりの旧正門を入った左側にあり、古びたボロボロの木造の建物でした。一年間位はそこの部室で諸先輩方の世話になりました。(後に旧正門の右側の体育館を改造して二階に新しい部室が出来引越ししました。)一年の時の我々は部に入ってからの友達でなく、友達になってから「わいわい、がやがや」と写真部に入ったものだから、先輩方からあまり良い顔をされず、部室を我がもの顔で閲歩し部室があいていると将棋をしたり雑談をしたりするもので余計先輩方の心象を悪くしました。  』
(中には理解ある先輩もおられましたが、)それでも一応、部活動は走り使いとして一生懸命したつもりでした。コンパは特にひどく、悪だった一年生は先輩方にこっぴどく飲まされ、宴会場で醜態をさらけ出したり、駅前で寝ころんだりした者もありさんざんな目にあいました。そうした二年間を曲がりなりにも撮影会に参加したり、夏の撮影合宿に参加したり、葵祭りの写真の展示をしたりして部活動に精を出しました。
我々が三年になって初めて役員に選ばれた時は写真の専門的技術的な指導を後輩に教える事がなかった様な記憶がありました。どちらかというと、モデル撮影会、合宿旅行(能登半島、へくら島)をしたり、当時、学生の主催するダンスパーティーが盛んで、第7支部(農大、電気大、他)合同でパ一ティーを主催したり、又、東経大写真部で部活動費を作る為に大久保の三福会館で、「バッキー白片」を呼んでダンスパーティーを主催する事が主な活動だった気がします。そんなわけで部活動は結構盛んでしたけれど、写真部としての撮影技術、現像、焼付け、引伸し等の技術を後輩への指導というものの発展はなかった様な気がします。しかしながら、葵祭の時の写真の展示やら、学校内の部対抗の野球大会等は活発で良い成績をのこし、模擬店等も出して成功した方でした。
今、私は奈良に越して、先輩、同輩、後輩に会う事も出来ず、OB会にもなかなか参加する事ができません。同輩でも何人かと年賀状の挨拶程度しかしておりませんが、何か機会があったら、諸先輩、後輩にも、会ってみたいですね。
今後も後輩方の努力と発展をお祈り申し上げます。

1964年 昭和39年

1) 2) 葵祭学内展

想 い 出
昭和41年卒
後 藤 俊 夫

私が幹事として活動したのは昭和39年です。この原稿を書くにあたり、当時の日記帖を引っ張り出しはじめて読み直してみましたが、つい夜のふけるのも忘れて読みふけってしまいました。今でもよく覚えている事、読みなおしたことによって想い出した事、そして読んでいても全く記憶にない事など様々ですが、とにかく、当時のいろいろな想い出が、楽しかった事、いやだった事種々取り混ぜて一度にドッとあふれ出た感じでした。
昭和39年という年を振り返ると、世界ではベトナム戦争の発火点ともなった「トンキン湾事件」の起きた年です、私は後にいわれる所謂ノンポリの部類にでも属する方だったのでしょう、世界情勢などにはあまり興味のない時代でした。国内では東海道新幹線が10月1日に開業し、10日には東京オリンピックの開会式が行われました。25日までの大会期間中、女子バレーなど日本は16種目に金メダルを獲得したのです。この頃は35年の安保闘争や40年以降のベトナム反戦闘争、学園紛争などの間にあった、比較的平和な学生生活かおくれた時代だったのではないかと考えられます。
初、私はこの様な時、38年の葵祭後幹事を仰せつけられ、身に余る大役と思いましたが、副幹事の北条君、名渉外係の国田、各務の両君など同期生全員の助力を得、39年葵祭までの任期をどうやら無事務めあげる事が出来ました。今も心から感謝しております。
この時私にとっても、又写真部(この頃は研究会ではなく部と呼んでいました)にとっても記念すべき事は、現在も使われている部のバッチを造ったということです。私の友人にデザイナーの卵がおり、彼に頼んでデザインしてもらいました。ただ、レンズを折り込むこと、TPCの文字を入れることは私が指示したものです。
私が入学した37年から合宿が行われる様になったと記憶しておりますが、39年の夏は淡路島へ行きまして、島の風物や、三原高校の浄瑠璃人形クラブの活動を撮りました。
年間の最大の行事は何といっても葵祭でしょう。合宿での作品の他に組写真を作ろうと計画しました。1つは、オリンピックの開会式に部員で唯一人入場した北条君が撮影したものを採用し、もう1つは「銀座Night&Day」としました。当時私は銀座のホテルで長い間アルバイトをしていたので、銀座のムードは田舎者の私には何かと珍らしく新鮮で楽しく見えました。そこで銀座の昼と夜の姿を撮ってみたら面白いだろうと考えたことから生れたものです。10月中頃の事です。ちょうど夏のバイトも終った後であり、北条君や
他の部員ともつれ発ち、1日目は昼から夕方まで、2日目は夜8時頃から夜中の1時頃まで、いったん帰宅して、又朝4時頃から8時頃までを撮影し
ました。毎日の様にバイトで通った銀座なのに、その時は気付かない全く別の姿にも接することが出来て面白かったと思っております。
これらに個人写真も加えて葵祭も終了しました。日記を読んでいると、個人作品の集りが悪いと気をもんでいる自分の姿が、スライドでも見る様な感じがします。
こうした活動の外に、学生写真連盟第7支部の一員としての作品で、八王子の織物工場を撮ったり、学校のアルバム委員として北条君と2人で約半年ぐらいアルバム造りの仕事をしました。又12月の事です。当時日本放送の「ミュージック・イン・ハイフォニック」という番組で学園めぐりというのを放送していましたが、それに応募して、私達写真部も私も含めて紅一点の大山さんらと5名位で出演しました。この時は役員の改選後の事で、私は幹事の任を解かれた後のことです。
以上の様な事を中心に、私は4年間を写真部の一員としてすごしましたが、学生生活をトータルに振り返ると、あまり勉強せずにすごしてしまったと半ば後悔の気持もわいて来ます。 しかし、楽しかった事に変りはありません。写真とバイトとマージャンですごし、試験中でもジャン荘に電話すると部員の誰かが必ずといっていいぐらい居たものです。写真の事では、伸しぐらいは自分でやりましたが、技術的なこと、作品の芸術的な面や特殊な焼き方などの事ですが、それらはあまり勉強しませんでした。どちらかというと、部を中心として楽しむということの方を先輩の方々から教授された様なものです。
写真部も50年の伝統を持つという事は誠に素晴らしい事と思います。今後もこの伝統を断つ事なく、益々発展していく事を心から念願しこの稿を終ります。

1965年 昭和40年

1) 2) 葵祭 学内展

葵祭模擬店「おぞうにや」始まる

1966年 昭和41年

1)春合宿 水郷
2) 関東大学写真連盟第7支部 バスハイク
3) 夏合宿 白川郷
4) 月例会
5)葵祭模擬店「おぞうにや」始まる

我が写真部時代
昭和43年卒
川 名   実

大学四年間を通じ、私の学生生活は、文字通り写真部と共にあった。このたびの五十周年記念誌の発行に当り、我々が過した頃の写真部について想い出を記してみたいと思う。
「今度写真部に入りましたのでよろしくお願いします。」部室で写真の乾燥をしていた人物に挨拶すると、「おう、よろしく」との返事。こちらは学生服なのに、相手は背広をピシッと着込んでいたし、その態度からしててっきり先輩と思い込んでしまったが、後からそれが同期の野崎功君とわかった。私は入学早々、ひょんな事から自治会活動に首をつっ込んでいたため、入部が遅れていたのだが、その入部初日、昭和三十九年五月某日のことである。(尚、その頃は写真研究会とは言わず、写真部と称していた。)
その頃の部室は、国分寺駅寄りの通用門を入ってすぐ、食堂の二階にあった。部員は登校するとすぐ部室に寄り、仲間と落ち合うとダベったり将棋をさしたりしているか、メンツが揃えば駅周辺の雀荘にくり込んでしまう者が多く、アーケード校舎という建物があったか、これをくぐる、つまり授業を受けに行こうとする者は、かなり真面目な部員であった。
部室の広さは、四畳位の部屋にベランダがあり、畳二枚を縦に並べたような狭い暗室か付いていた。その暗室の壁の向こうはマンドリンクラブの部室で、彼等の練習時には騒々しくて、とても芸術写真の伸しをやれるような雰囲気ではなかった。とは言うものの、そのお隣りさんのマンクラで嫁さんを見付けた豪の者もいるので、あまり悪口は言えないのだが……。
その頃部員は総勢四十名位で、使用カメラはまだ一眼レフは少なく、その中ではペンタックスS2が多かった。かく申す私も、中学時代に二眼レフからスタートしたが、一眼レフは大学二年の夏のアルバイトでやっと手に入れた中古のミノルタSR-7が最初であった。
先輩諸兄からは反論か出るかもしれぬが、当時の写真部の技術的なレベルは、あまり高いものではなかった。そのため、我々か幹部になった時の活動の基本方針は、一つは技術面のレベルアップ、もう一つは「部」も一つの小さな社会である、との認識から、部活動は共同作業を原則とし個人プレーは避ける、というものであった。
当時の活動内容は、月例コンテスト、撮影主体の夏合宿、ミーティング主体の春合宿、葵祭の展示、モデル撮影会等があったが、特に夏合宿、葵祭には懐しい思い出が数多くある。葵祭の展示物は通常、半切、全紙のパネルでまとめたが、前述のように部の暗室では狭くて伸しができない。そのため部員の自宅を借りて泊り込みで焼いたが、連日の徹夜作業で露光時間を計っている者がいねむりしてしまったり、睡魔と闘うためにダジャレの連発をし合ったりした。
技術面レベルアップの一環としては、当時まだ今ほど普及していなかったカラーの伸しをやったり、二畳敷位の特大伸しをやったりもした。特大伸しでは、同期生に染色工場経営者の息子がいたので、その工場を暗室として使わせて貰った。印画紙には一メートル幅のロールのペーパーを二枚つなぎ、薬品のバットには、角材、ベニヤ板でワクを作りビニールシートをはったものを使用した。引伸し機のランプハウスを工場のハリに取付け、脚立に乗ってヘリコイドを動かし、床に置いた引画紙にピントを合わせた。勿論これらの作業は夜間に行ったのだが、空か白々と明けてきた頃にやっと完成した時には、皆で思わず万才を唱えたものだった。
我々が二年の時、女子部員が一度に五人入部してきた。それまでは女性がいても一・二名で、それもほとんど実質的な活動をしていなかったから、この新現象には少々とまどったものである。しかし、彼女達はその後合宿や日常の活動にも積極的に参加してくれたが、第一の業積は、今や葵祭の老舗ともなった模擬店「おぞうにや」の開業なのである。その頃はやりのオバQのマンガ入り看板と、上等なダシを使った味の良さは評判であったが、その伝続が今も伝えられていると思うと、非常に感慨深い。
現在私は、写真集を刊行する出版社に勤務し、写真と深くかかわり合っている。更に写真部時代の経験が、今の仕事と直接的、間接的に強く結びついている。従って写真部時代は、私の現在の境遇の原点であった、とも言えようか。それだけに写真部、いや写真研究会の今後の発展を、心から希望して止まないのである。

1967年 昭和42年

1968年 昭和43年

1969年 昭和44年

大学創立70周年 大学院修士課程を開設

昔なつかしきころ
昭和46年卒
広 瀬 康 已

一年、入部時にカメラは何と尋ねられて「ペンSです。」と答えたらペンタックスと感違いされた。実はオリンパスペンだったのに!
しばらくはハーフサイズで例会に出した。最初のテーマは「遊園地」。先輩のおかげで一席をもらった。
一年の合宿は京都嵯峨野、竹の共同制作があった。
秋、陸上運動会の百足レースで一等取った。写真部からのエントリーはこれか最初と思う。学園祭での仮装行列も優秀賞を取った。
二年、新宿のフォークゲリラが出た頃、年の大半をジーパンとビーチサンダル、モデル撮影会、でも、今ひとつ盛り上りに欠けた。
合宿は富山、高岡、新産業都市構想を斜に見た共同制作は、つっこみに欠け作品も迫力がなかった。
三年、春合宿を伊豆で夏を白馬で行なった。この頃から部の写風が変わった様に思う。今から思えば恥しい限りだが個性とか、創造性とか、オリジナリティとか、理屈こねながら自分の写真のみを撮り始めたように思う。
又、部門を作って、どれかに所属するようにさせ、一応の技術を習得しようと燃えつつあったようだ。
水泳大会に出たり、水上運動会に出たり、学内では写真部と言えば、泣く子もだまる勢いだったと記しておこう。
三年それまでの平部員から幹部となって「大変だったんだなあ先輩達も」と感ぜずにはおれなかった。一年二年は、勝手気ままに足引っぱっていたが(本人達はそのつもりはなかったと明言しておこう)、六十人の所帯を率いるのに、かなりな苦労と勉強をさせられた。これか今だに役立っている事もある。
秋の学祭は、こんな部を反映してか、「五十九人展」となった訳である。何かとハデな事をやりたかった頃だった。アイデアも、十人十色ユニークなものがどんどん出て来た。暗中模索だったのだろう。「大きい事はいい事だ。」と言うCFのコピーが流行した頃と思う。
世の中も昭和元禄と言いつつも、表と裏が極端になりつつあった頃だと思う。七十年安保の中で学生達も自分を見つめなおす時だったのだろう。学内に乱入した機動隊、今の後輩達や、制限された報道の中では信じられない事も沢山あった。これでいいのか!1と心の中でつぷやきつつ、少しでも真実をと、かすかな抵抗もして見たが、さびしい時代だったと思う。 しかし半面、楽しい日々もあった大阪万博があった。それに行く、行かないと言う事でも人間性を疑われる感があった。
四年は、合宿は八幡平、東北のバンガローでのキャンプだった。合宿は撮影より部のチームワークにウェイトを置く様に次第になって行ったように思う。もう十年以上も前のアルバムを見なから苦笑を禁じ得ず、駄文を記している。
当時のいろんなコマが頭の中をよぎります。
五電を、たった一人の為だけに停車させたI君、今どうしてるだろうなあ。
パチンコで伸し機買った奴もいたなあ。
学祭用の大伸し焼くのに某自動車工場で、一時間半も露光にかかった。仕方なしにマージャン半荘しながら待った事もあったな。その際中パトカーが不審に思い、踏み込まれた事もあったな。
卒業記念の写真をハダカで、皆で撮ろうと深大寺で頑張っていたら警察に通報されて始末書書かされた事もあったな。
想い出しているうちに何となくため息が出てしまった。当時、金は無かったかそれなりに、充実していたと思う。安いフィルムがあると聞けば買いに行った。財布と相談しつつ、写真には月千円であげようかとか、けっこう楽しんでいた。今想えば、本当に自由だったと思う。学校も全体にのんびりした雰囲気だった。単位とれずに少しは苦労した事もあるけど結局四年間、写真部ばっかりやっていたなと思う。
今は仕事の上で撮るだけみたいな日々、それも、スライドが主だけど、年にー、二度は創作意欲にかられる事があるが、なかなか、頭ばかりが先走って、上手くゆかない。
よし、今年は頑張るぞ!

1970年 昭和45年

青 春 恥 記
昭和48年卒
野 上 一 雄
題辞のごとく、あの四年間は、恥を恥と思わず、怠情を怠惰にならさず、挫折を挫折と思わず 熱くして、限りをつくしたように想い起こしている。
1969年国分寺の学窓にまみえ、時同じく写研、「てぺっつえ」と出会った事は、長く私の一生の中に、記念樹を植える結果となったようだ。
そこに何があって、何をしたか、何が残ったか、まだ整理していないが、5O周年の期に筆を取る機会を待て、年次順にでも、私の青春恥記たる行動を列記してみたい。
四年間を自分に与えられた自由な時間と考えた私は、真っすぐクラブ活動を見つけに学窓をくぐったといっても過言ではないと思っている。70年安保の直前という世相の中で我々も高校時代より、大学立法に抗して、安田講堂を自目道前のものと感じつつ、大学受験を終え、東経大に入学したわけであるが、革マル、社青同、中革、べ平連 のアジテーションの中で生きた最初の学園生活は印象に残っている。 一学期は写研とは人間の缶詰と思わせる程学食の上の部室に人間が多く、ほとんど記憶に残る所はないが6年間男子校で育った私は、女性が大変まぶしかったのを憶えている。ルナというタバコを吸いはじめ、一人前に酒を覚えはじめた頃夏休み、落書帳に、「長き雲のたなびきを、一人背に負うるがごとき頃となりぬ……」などと梅雨空の中夏休みを向えた。
私達69会にとって(69年入学者写研会員の称)この夏の白馬岳合宿程忘れ得ぬものはないと思う。信濃森上から徒歩で登り、先発隊の芯のある焼飯で向えられ、ランプの清掃をし、川の水で歯をみがき、風呂鍋でやけどをした事を、今でも昨日の事のように、思い出す事ができるのである。小高い丘の上の大きな木の下の、二段ベッドと屋根裏部屋と、今風に言えばツーバイフォー形式のリビングだけである。まわりは、木立と川とトンボだけ、何もない生活は貴重であり、人と話しをする以外楽しみは何もなかった。
飯野幹事のもと、一週間、主体性、写真と自分人生感、結婚感、社会事情、安保と話す事はずいぶん沢山あるものだと思ったものである。
この時二人の女性に憧がれた私は、音痴な歌をギターの伴奏で歌い、夜通しランプや炊き火のあかりで、とってもメランコリーな気分になったものであった。その頃の歌に、希望、禁じられた恋、若者達、風に吹かれて、青いサンゴ礁等々、今でも口ずさむフォークソングがあった。
葵祭で写真を作る面白さを知り、魚眼レンズで畳一畳の写真を図書室前でパネル張りし、水洗した事もあった。おぞうに屋で飲み、大信州で、キャベツをかじり、グランドコンパで彼女と飲んでハニー、アミーでくだをまいて、トリデ、フォッサムで麻雀狂い、ナポリ、ベニス、ナポレオンは玉遊びと大変楽しく一年、二年をすごした。69会は、同期の女性短大生の卒業を向え、はれて幹部となったものでした。その頃私は、失恋をして、一ツ橋学園の別荘に、三日三晩隠遁した事も有りました。幹事は太田正、会計相沢、副幹事磯部、書記横内、技術大上、鈴木健、OB横大路、文化会加納、そして渉外野上、渉内堀端、ノンセクト山口、猪ケ倉、ポエム磯部、横内、ドキュメント鈴木健、等々他に細木、木村、田島、などか勝手に自分自身を貫ぬいて、活生化していた。
この幹部誕生についても、私達にしか味わえない感動的な事実かあった。それは第一回の幹部選挙で、我等の太田が落選したのである。
私達69会はピーナツハウスの地下室で、苦汁に満ちた額を寄せ合い一週間、同じ態勢で、幹部推挙をもう一度しなおしたのでした。そんな、
生れ出ずる、悩みか今も続く69会をささえているものだと感じている。合宿で背筋を違えたやつもいる。
北海道で車をひっくりかえしたやつもいる。学生の分際ながら雀代で晩飯のおかずを買い亭主に貢いだやつもいる。女性の頭を太鼓とまちがえたやつもいれば、機動隊と全学連の真ん中で野ぐそをしたやつもいる。能登で全裸でおよいで息子がやんごとなく怒り立ち上がれなかったやつ。飲んでラーメンを電柱ごとに目じるしにしたやつ、いきがってオートバイで伊豆へ行き、二日間
ぶったおれたやつ、早ばやと二人の人生を歩みはじめたやつ、幼ななじみと、四年間曲折を繰り返し、最後につかまったやつ。
40才で銀行の支店長になるというやつ、数えればきりなく浮ぶ、我等69会恥記忘れられない同期の女性達8名、ロマンス、涙し、笑い、共感、反感、対立、協調、心の欲するままに行動した四年間を、つつじの花びらを口ずさむ時、脳にせまって、思い出す私であります。

1971年 昭和46年

私の写真活動
昭和48年卒
横 内 明 人

10年の年の流れはやはり自分には大きく長い道のりに感じられます。過去にもどろうとする時、それは忘却という壁にどうしても突き当たってしまいます。変化に対応する力だけが今の自分の身についてしまった以上、過去にもどろうとする時、どうしても10年の時の重さを感じざるを得なくなっています。
自分にとって写真研究会は、自我をめざめさせてくれた集団でした。合宿、下宿生活、酒、女、すべて4年間に自己を確立させてくれた集団でした。18才から22才までの4年間、ファインダーを通じ、また、写真を通じ、これほどまではっきりと各自のキャラクターを表現できるものはないと思いこんでいました。写真を見て、おもわず感動に涙することもたびたびありました。どうして自分にこの表現ができないのか? あるいは、どうしてこういう構図、こういう焼きができないのかと手法論でも、心理論でも、自分に疑問をなげかけたものでした。しかし、結果としては、いつも答は同じ、「主体性とは?」という論議が最終の論議でした。結局は、自分の被写体への取組み方、入りこみ方、感動の表現がいつも半端だったというのが自分の結論でした。4年間、忘れられない思い出ばかりのサークル活動でしたが、自分にとって大きく自我をめざめさせてくれたことが今、印象的です。
10年経た今、まだまだ仕事に、家庭に、甘い面を我ながら感じることもあります。しかし、学生時代に学び得た[やはり人間関係!!]という大きなものは、相通じるものがあります。小売業に10年、発想はいつも「お客様はどう考えている?」「どう望んでいる?」という考え方です。ひとつの組織の中での人の和というものは、やはりむずかしく、創ろうとしてできるものではなく、自然に育つものみたいです。サークルを通じ、自我にめざめ、今、やっと自分の生き方みたいなものが方向性を持ってきたようなところです。
今、手もとに「雑魚寝問答」があります。卒業記念にと作成した我ら69会の記念集です。そこにはやはり、青春の思い出が満載されています。しかし、今、現実に社会人として仕事をしている時には、もう「10年の昔」になってしまうのです。マインドは決して失なってはいません。気持ちはいつでも「青春ING」でいるんですが、なかなか現実とのギャップがあることも確かです。
先月、久々に69会の仲間か集まりました。 10年の年月をまったく感じさせない顔の集まりでした。ただ、カラオケのマイクに、ヘイグのウィスキーは、10年の年月を感じさせたものでした。富山にいって写真集を作成した時、冬の日本海がとても力強く心に焼きついています。酒を飲みすぎて、国分寺駅でゲロした時、みんなのやさしさを感じたものでした。部室の中でワイワイ、ガヤガヤさわいでいたものでした。暗室の中で影像が浮かびあがってくる瞬間のよろこびは、停止液のすっぱいニオイとともに体にしみついています。
1年の時、夏のバイト代を全部つぎこんで買った「二コン」は、今も愛用機です。
10年の年月、さらにこれから10年、今後も自分の心に残像として残っていくでしょう。
創立50周年にふさわしくない乱文乱筆、許してください。卒業後、1回も学祭には参加していませんけど、千葉の田舎にも「てぺっつぇ」のマインドが生きつづけていることも皆様に伝えたいと思い、ペンを執りました。OB会の皆様、そして現役の皆様、本当にごくろうさまです。今後の写真研究会の発展を祈りペンを置きます。

1972年 昭和47年

1973年 昭和48年

1974年 昭和49年

1975年 昭和50年

1976年 昭和51年

1977年 昭和52年

1978年 昭和53年

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